長崎街道・佐賀宿
長崎街道
長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉の常盤橋を始点として、肥前国長崎に至るまでの路線です。
総行程の距離は、57里(約223.8km)で、途中に25の宿場が置かれました。当時、旅人はすべて徒歩で往来し、その日程はおよそ七泊八日の旅であったと云われています。
佐賀宿
構口番所
江戸時代、長崎街道で東から佐賀城下へ入るとまず「構口番所」を通る必要がありました。
慶長13年(1608年)、佐賀城下が構築された際に、ここの番所も設けられたと云われます。そのためこの付近は、かつて「慶長町」と呼ばれたこともありました。これより西へ向かって、さらには佐賀城を北へ迂回するようにくねくねと曲がった長崎街道が通ります。
思案橋
構口を西へ進むと、その名も有名な「思案橋」を渡ります。昭和初頭までは、今宿川は水深2メートル以上あり、多くの船が行きかっていました。そのため、船通りの良いように勾配がある太鼓橋の構造をしています。
欄干は抜木、束柱、手すりの笠木を組み、親柱には、はっきりと「思案橋」の名が刻まれています。かつては、船がこの橋を通り上れば「芦町」、下れば「室園」の遊郭。どちらに行こうか金繰り合わせの思案の船着場が橋名の由来とも云われています。
もしくは近辺は、佐賀城下の東に位置する商人街で「蔦屋」「松永呉服」「野中烏犀円」での品々を購買する思案をしたとも伝わります。
佐賀藩本陣跡
佐賀市・呉服元町の長崎街道沿いにある佐賀藩本陣跡です。
佐賀城下では、願正寺と称念寺が仮本陣とされていましたが、寛政12年(1800)に呉服町の御用商人、野口恵助の私邸を改築して本陣としたと記録が残っています。この本陣には、街道を旅する大名や旗本・幕府の役人など宿泊しました。
長崎街道・絵図
長崎街道の両脇側溝には、当時の絵図が埋め込まれています。
善左衛門橋
長崎街道を西に進むと護国神社の北端、多布施川に架かる所に長さ8メートル程の石橋があります。
この橋は、江戸時代に洪水の度毎に流されていたものを、宇野善左衛門が私財を持って建設したものです。
明和元年(1764年)7月10日に竣工し、渡り初めの費用もすべて善左衛門が出したと云われています。橋の土台に直径40センチの松の丸太を井の字に組み、その真中に石柱の橋脚を立てた頑強な造りです。
六座町
佐賀藩祖・鍋島直茂は、鍋島の蠣久から商人たちを呼び寄せた独占的な商人の集団”座“を設けました。それを当時は六座と呼び、その名前が町名として今に伝わります。
その六座とは、硝煙座・穀物座・縫工座・木工座・金銀座・鉄砲座の六つを指します。
長瀬町道標
佐賀宿・長瀬町の長崎街道沿いに建つ道標です。正面には右方向へ「こくらみち」、左方向へ「ながさきへ」とあります。
さらに、左右両面には「いさはやとかいばへ」と刻まれています。建立年月は明らかではありませんが、その様式から江戸時代中期以降のものと考えられます。
のこぎり型家並
長崎街道・長瀬町道標を西へ進むと、八戸ののこぎり型家並が続きます。
佐賀城下への敵の進行を妨げるために、街道沿いの民家をわざと斜めにずらして、防衛体制を取った名残りとも云われています。
八戸の地蔵菩薩
長崎街道・地蔵橋の西北にある地蔵菩薩です。通常、道端にある地蔵に比べかなり大きく、高さは3メートル近くあり、仏像のようにも思えます。
宝暦6年(1756年)、長瀬町の鋳物師であった谷口安左衛門によって鋳造されました。
八戸・番所跡
佐賀城下の長崎街道沿い、八戸宿に西の番所がありました。東の構口・番所とともにお城下に出入りする旅人達を厳しく取り締まりました。
高橋
長崎街道の西の入口で本庄江川に大きく架かる橋が、「高橋」です。佐賀藩時代には、東の「構口」と同じく番所がありました。
本庄江の船着場であったので、航行に支障がないように橋桁が高くなっていてその名の通り、「高橋」と呼ばれるようになったと云われています。
扇町・苗運寺
扇町の苗運寺は、永禄元年(1558年)深町苗運開基の曹洞宗の寺です。境内には、「扇町毛氈」を創作した「古賀清右衛門」の墓と顕彰碑があります。
なお、明治13年から明治22年までの間、苗運寺境内には「栄昇小学校」がありました。
苗運寺の境内には、元禄6年(1693年)に「扇町毛氈」を始めた「古賀清右衛門」の墓と、「鍋島段通」顕彰碑があります。
「鍋島段通」は、当時の佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂公が、この緞通の精緻で優美な趣を愛し、藩内での生産を奨励し、扶持米をあたえて御用品としました。さらに、一般への販売を禁じ、佐賀藩から幕府や親藩大名への贈り物として用いられ、以来明治20年頃まで製造されていました。
別れの松
苗運寺を西へ進むと嘉瀬町の長崎街道沿いに「別れの松」があります。
ここはかつての刑場に向かう罪人が、家人や知人と別れを告げた場所でした。
嘉瀬の旧道
嘉瀬・別れの松から長崎街道は、旧道へと入ります。そして700メートルほど西へ進むとふたたび国道34号線と合流します。
現地には、往時を偲ぶ大きな町屋が建っています。
千人塚
長崎街道を更に西へ進み嘉瀬川を渡る頃、傍らにはかつて佐賀藩の刑場がありました。
元禄時代、嘉瀬津・妙福寺19世、日仙上人が刑死者の菩提を弔うため、卒塔婆を建てたと伝えられています。
その後、明和3年(1767年)、同寺の日潮上人によって石碑に建て替えられ「千人塚」と呼ばれるようになりました。現在は、石碑は妙福寺に移され、地蔵様を祀る祠が森林公園の中にあります。